パルヌ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a3/Parnu-pos.jpg/250px-Parnu-pos.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e8/Flag_of_et-Parnu.svg/250px-Flag_of_et-Parnu.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/df/Et-Parnu_coa.svg/150px-Et-Parnu_coa.svg.png)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/P%C3%A4rnu_beach_-_panorama.jpg/250px-P%C3%A4rnu_beach_-_panorama.jpg)
パルヌ(Pärnu)は、エストニアの都市。バルト海のパルヌ湾沿いにある都市であり、エストニア屈指のリゾート地としても知られる。ピャルヌ,ペルヌとも表記される。人口は4万136人(2019年1月)[1]。
地勢・産業
バルト海のパルヌ湾沿いに位置しており、街をパルヌ川が流れる。港湾都市としての機能を果たすほか、エストニア屈指の観光都市であり、国内のみでなくフィンランドなどからの観光客も訪れる。近隣の都市としては、約65キロ東のヴィリヤンディが挙げられる。約45キロ南がエストニア・ラトビア間の国境である。
歴史
13世紀、リヴォニア騎士団がこの地に拠点を築いた。バルト海と内陸を結ぶ交易路上に位置しており、14世紀半ばよりハンザ都市の一つとして繁栄した。その支配国を幾度かかえたのち、18世紀の大北方戦争によってロシア帝国に征服され、1721年のニスタット条約でその領有が確認された。19世紀前半より、パルヌはリゾート地としての開発が進められた。第一次世界大戦後にエストニアの一部として独立を果たしたが、第二次世界大戦中にソ連によって併合された。東欧革命の過程でエストニアが再独立を果たし、パルヌも再びエストニア領となった。
姉妹都市
脚注
[脚注の使い方]
- ^ https://parnu.ee/index.php/en/
参考文献
- 伊東孝之ら編『世界各国史20 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年
- 志摩園子『物語 バルト三国の歴史』中公新書、2004年
- 原翔『バルト三国歴史紀行I エストニア』彩流社、2007年
外部リンク
- パルヌの公式サイト(エストニア語)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Commons-logo.svg/30px-Commons-logo.svg.png)
ウィキメディア・コモンズには、パルヌに関連するメディアがあります。