ムアイヤド・シャイフ
ムアイヤド・シャイフ | |
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ブルジー・マムルーク朝第5代スルターン | |
在位 | 1412年 - 1421年 |
死去 | 1421年 |
子女 | イブラヒーム ムザッファル・アフマド |
王朝 | ブルジー・マムルーク朝 |
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ムアイヤド・シャイフ(? - 1421年)は、エジプトを支配したブルジー・マムルーク朝の第5代スルタン(在位:1412年 - 1421年)。
生涯
初代スルタン・ザーヒル・バルクークに仕えたが、元はマムルーク(奴隷)ではなかったという。バルクークの死後、後を継いだナースィル・ファラジュの時代に頭角を現し、1400年にトリポリ太守になる。しかし1401年、ティムールによる西アジア遠征(7年戦役)では大敗を喫した上に捕虜になったという。
ティムールの死後に解放されると、エジプトに戻る。ファラジュの権力の弱体を見て1407年にはダマスカスの太守・ヌールーズと共に反乱を起こした。ところがファラジュにはこの反乱を抑える力が無く、シャイフの出した条件を一方的に認めてしまう。これで図に乗ったシャイフは1410年に再び反乱を起こし、1412年には遂にファラジュを殺害した。その後しばらくはカイロ・アッバース朝カリフのムスタイーンを傀儡としてスルタンに擁立し[1]、ヌールーズと共存するかにみえたが、半年後にはカリフからスルタン位を奪い取り、1413年にはヌールーズを滅ぼしてマムルーク朝の最高権力者として君臨した[2]。
即位後は領土拡大や傘下の従属国による離反を抑えるためにたびたび遠征した。また、文化事業に力を入れて一時的とはいえマムルーク朝の政情安定化と全盛期時代を再現した。しかし1421年にシャイフが死去すると、わずか10歳の息子であるムザッファル・アフマドが後継者となったことで配下の間から不満が起こり、先代と同じように世襲はならなかった。
脚注
参考文献
- 大原与一郎 『エジプト マムルーク王朝』 近藤出版社、1976年
マムルーク朝君主 | |
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バフリー・マムルーク朝 | シャジャル・アッ=ドゥッル1250 / アイバク1250-1257 / アリー1257-1259 / クトゥズ1259-1260 / ザーヒル・バイバルス1260-1277 / バラカ1277-1279 / サラーミシュ1279 / カラーウーン1279-1290 / ハリール1290-1293 / ナースィル・ムハンマド1293-1294 / キトブガー1294-1296 / ラージーン1296-1299 / ナースィル・ムハンマド(復位)1299-1309 / ムザッファル・バイバルス1309-1310 / ナースィル・ムハンマド(復位)1310-1341 / アブー=バクル1341 / クジュク1341-1342 / ナースィル・アフマド1342 / イスマーイール1342-1345 / カーミル・シャーバーン1345-1346 / ムザッファル・ハーッジー1346-1347 / ハサン1347-1351 / サーリフ1351-1354 / ハサン(復位)1354-1361 / マンスール・ムハンマド1361-1363 / アシュラフ・シャーバーン1363-1377 / アリー1377-1381 / サーリフ・ハーッジー1381-1382 / バルクーク1382-1389 / サーリフ・ハーッジー(復位)1389-1390 |
ブルジー・マムルーク朝 | バルクーク1390-1399 / ファラジュ1399-1405 / アブドゥルアズィーズ1405 / ファラジュ(復位)1405-1412 / シャイフ1412-1421 / ムザッファル・アフマド1421 / タタール1421 / サーリフ・ムハンマド1421-1422 / バルスバーイ1422-1438 / ジャクマク1438-1448 / ユースフ1448 / ジャクマク(復位)1448-1453 / ウスマーン1453 / イーナール1453-1460 / ムアイヤド・アフマド1460-1461 / フシュカダム1461-1467 / ヤルバーイ1467-1468 / ティムルブガー1468 / カーイトバーイ1468-1495 / ナースィル・ムハンマド1495-1498 / カーンスーフ1498-1499 / ジャーンバラート1499-1501 / アーディル・トゥーマーンバーイ1501 / ガウリー1501-1516 / アシュラフ・トゥーマーンバーイ1516-1517 |
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