ヴィクトワール・ド・フランス
ヴィクトワール・ド・フランス Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France | |
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ヴィクトワール・ド・フランス、1747年、ジャン=マルク・ナティエ画 | |
出生 | (1733-05-11) 1733年5月11日 フランス王国 ヴェルサイユ宮殿 |
死去 | (1799-06-07) 1799年6月7日(66歳没) 神聖ローマ帝国 オーストリア大公国、トリエステ |
埋葬 | 1817年1月21日 フランス王国、サン=ドニ大聖堂 |
家名 | ブルボン家 |
父親 | フランス王ルイ15世 |
母親 | マリー・レクザンスカ |
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マリー・ルイーズ・テレーズ・ヴィクトワール・ド・フランス(Marie-Louise-Thérèse-Victoire de France, 1733年5月11日 - 1799年6月7日)は、フランス王ルイ15世と王妃マリー・レクザンスカの五女。マダム・カトリエーム(Madame Quatrième:4番目の王女の意)と呼ばれ(彼女の誕生した年に次姉が早世したためこう呼ばれた)、成長するとマダム・ヴィクトワールと呼ばれた。「メダム」と呼ばれた王女姉妹の一員であった。
生涯
ヴィクトワールが生まれたのは次兄フィリップ(英語版)が夭逝したばかりの頃で、王子の死は王子の誕生でしか埋め合わせが出来なかったため、王女であるヴィクトワールの誕生は喜ばれなかった。
ルイ15世の王女たちは、ヴィクトワールから下の娘たちはフォントヴロー修道院で育てられ、のちにヴェルサイユ宮殿に戻っている。
姉アデライードや妹ソフィー同様に父の公妾デュ・バリー夫人を嫌い、甥の妻マリー・アントワネットをたきつけて夫人と対立させたことが知られる。ルイ15世の死後はヴェルサイユ宮殿を去り、甥のルイ16世から与えられたベルヴュ城にて姉妹で過ごした。
1789年10月、革命政府により姉のアデライードと一緒にベルヴュ城に監禁された。釈放されるまではアルネ・ル・ダックで数日を過ごし、1791年2月にイタリアへ発った。トリノで姪のサルデーニャ王カルロ・エマヌエーレ4世妃クロティルデを訪問したあと、4月にローマに到着した。革命政府の影響が及ぶにつれローマにいられなくなり、同年のうちにマリー・アントワネットの姉ナポリ王妃マリア・カロリーナを頼りナポリへ移った。1799年にギリシャ・コルフ島に滞在していた2人が最終的に落ち着いたのは、オーストリア国境にほど近いトリエステだった。ヴィクトワールはそこで乳癌のため死去した。翌年の1800年には、アデライードも妹の後を追った。
2人の遺体は、のちに甥ルイ18世によりフランスへ運ばれ、サン=ドニ大聖堂に葬られた。
参考文献
- 『フランス王妃列伝』阿河雄二郎、嶋中博章編(昭和堂、2017年)