原長頼
凡例 原 長頼 | |
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 慶長5年10月13日(1600年11月18日) |
別名 | 彦二郎(通称)、信政、房親、政茂、胤房、可房、高豊、勝胤、勝根 |
官位 | 従五位下、隠岐守 |
主君 | 織田信長→柴田勝家→前田利家→豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 原氏(清和源氏頼光流土岐氏族) |
父母 | 父:原頼房 |
子 | 彦作 |
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原 長頼(はら ながより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
生涯
はじめ織田信長に仕え、美濃国本巣郡花木城(中野城)主となる。天正3年(1575年)、越前一向一揆の討伐のため信長は越前に軍を進めた。長頼は金森長近らと共に奥飛騨から奥越前に侵入し、一揆を掃討した。戦後、信長から越前大野郡の三分の一の2万石を与えられ、柴田勝家軍団に属し、勝山城城主となった。天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して反乱を起こすと、その討伐で軍功を挙げ、天正7年(1579年)には信長の命令で荒木一族の処刑を担当している。
信長没後は勝家に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは先鋒、及び敗走時には殿を務めた(『太閤記』)が、後に羽柴方に寝返った。戦後は徳山秀現と共に前田利家の組下に入り、天正12年(1584年)の能登末森城の戦いで軍功を挙げた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の直臣として伊勢国内に3万石を与えられた。天正18年(1590年)の小田原征伐後、三河に移封された。慶長3年(1598年)、美濃太田山(現・美濃加茂市)に移封される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、福島高晴の伊勢長島城を兵800を率いて攻めた。石田三成に対して伊勢から尾張に侵攻しての清洲城攻めを進言し、毛利秀元は賛成したが、三成らの反対で実現しなかったという。関ヶ原の本戦にも参戦予定であったが、その途上で関ヶ原での西軍の敗報を聞いて敗走し、10月13日に自害した。享年57。