和久 是安(わく ぜあん、天正6年(1578年) - 寛永15年8月(1638年))は、安土桃山時代末期から江戸時代前期の武士、書家[1]。名は俊英[1]。字は宗友[1]。通称は半左衛門[1]。是安は号[2]。父は和久宗是、母は和久掃部の娘[1][2]。
経歴・人物
天正6年大坂に生まれる[2]。近衛信尹にまなび近衛流(三藐院流)を手中にした[2]。画もよくした[1]。豊臣秀頼の右筆をつとめ、のち伊達政宗にまねかれ1000石をあたえられた[1]。
脚注
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- ^ a b c d e f g デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『和久是安』 - コトバンク
- ^ a b c d 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞社)『和久是安』 - コトバンク