大日本帝国の化学兵器
大日本帝国の化学兵器(だいにほんていこくのかがくへいき)について解説する。
概要
第一次世界大戦における大規模な化学兵器の実戦使用を受けて、大日本帝国陸軍においても化学兵器の装備化が図られた。1914年には研究が開始され、1919年には陸軍科学研究所においても開発が開始された[1]。1929年には大久野島の陸軍造兵廠において毒ガスの製造が開始された[1]。
関東軍には516部隊が置かれ、中国大陸における化学戦研究が行われている。日中戦争においては、1937年以降、まず催涙剤(みどり剤)が使用され、その後、くしゃみ剤(あか剤)、びらん剤(きい剤)が使用されたとされる[2]。第二次世界大戦中の1942年にアメリカから化学兵器使用に関する報復の警告が行われて以降、化学兵器の使用は取りやめられた[2]。ただし、化学兵器自体の保管は続けられ、終戦後に連合国への引き渡し等が行われた。遺棄された化学兵器については、回収及び廃棄作業が行われており、特に中国大陸においては、1999年代より遺棄化学の処理作業が行われている[3]。
第二次世界大戦時にいたるも、神経ガスは保有しておらず、大日本帝国陸軍の化学戦能力自体は高くなかったとの評価もある[4]。
大日本帝国海軍においては、相模海軍工廠において化学兵器を製造していた[1]。
一覧
大日本帝国陸軍では、化学兵器の名称を色で区分していた。大日本帝国海軍においては、1号特薬から4号特薬との名称を付与していた[1]。これらはガラス瓶や航空爆弾に封入されて使用された。
参考
関連項目
外部リンク
- 昭和48年の「旧軍毒ガス弾等の全国調査」フォローアップ調査報告書 平成15年11月28日 (平成16年3月31日更新版)環境省
- 遺棄化学兵器の安全な廃棄技術に向けて 平成13年7月23日 日本学術会議