小田切昌倫
凡例 小田切昌倫 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 寛文9年(1669年) |
死没 | 宝暦3年12月20日(1754年1月13日)[1] |
別名 | 治大夫[1] |
戒名 | 紹蘤[1] |
幕府 | 江戸幕府 書物奉行 |
主君 | 徳川家綱 |
氏族 | 小田切氏 |
父母 | 父:小田切知義、母:高林昌近娘[1] |
兄弟 | 女子(太田好孝妻)、某(早世、多賀之助)、女子(平岡道弘妻)、昌倫[1] |
妻 | 佐野政時娘[1] |
子 | 女子(浅岡政道妻)、女子、女子、昌行[1] |
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小田切 昌倫(おだぎり まさとも)は、江戸時代中期の武士。徳川氏家臣。
経歴・人物
延宝4年6月5日(1676年7月15日)、8歳の時に徳川家綱に初めて拝謁する[1]。元禄12年12月9日(1700年1月28日)家督を継ぐ[1]。元文5年9月16日(1740年11月5日)書物奉行となり、寛延3年11月30日(1750年12月28日)老いを理由に職を辞す[1]。その際、黄金2枚を賜う[1]。
脚注
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- ^ a b c d e f g h i j k 『寛政重修諸家譜』、巻第三百九十四。