江朝宗
江朝宗 | |
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北京政府時代の江朝宗 | |
プロフィール | |
出生: | 1861年(清咸豊11年) |
死去: | 1943年(民国32年)9月20日 中華民国 北京特別市 |
出身地: | 清安徽省寧国府旌徳県 |
職業: | 軍人・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 江朝宗 |
簡体字: | 江朝宗 |
拼音: | Jiāng Cháozōng |
ラテン字: | Chiang Ch'ao-tsung |
和名表記: | こう ちょうそう |
発音転記: | ジアン・チャオゾン |
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江 朝宗(こう ちょうそう)は、清末・中華民国の政治家・軍人。初めは北京政府に属した。後に中華民国臨時政府など親日政権に与している。字は宇澄。号は雨丞。
事跡
袁世凱腹心へ
最初は台湾巡撫劉銘伝に仕え、台湾に渡って劉銘伝の属官として活動する。しかし江朝宗は賄賂を度々収受したために、1889年(光緒15年)に劉銘伝により収監され、本土へ送り返されている。後に、袁世凱に取り入ってその配下となった。袁世凱が一時失脚すると鉄良配下に転じ、陝西省で漢中鎮正二品総兵に任命された。
辛亥革命が勃発すると、江朝宗は陝西省から北京へ逃亡した。江朝宗は民政部侍郎趙秉鈞の手引きを得て、復権した袁世凱の下で歩軍参謀官に任命される。1912年(民国2年)7月、署理歩軍統領に昇進する。翌年12月から正式にその地位に就いた。以後、袁世凱の腹心として活動し、1915年(民国4年)の袁世凱の皇帝即位の際には、大典籌備処委員として輔弼した。
代理国務総理に
袁世凱死後、1917年(民国6年)5月に、江朝宗は王士珍を補佐して京津警備副司令に就任した。まもなく張勲が北京入りを図り、黎元洪に対して国会解散を迫った際には、江朝宗が黎元洪から委任されて国会解散命令に署名した。さらに14日間ではあるが代理国務総理を務めた。
同年7月1日に張勲が復辟を敢行すると、江朝宗はこれを支持して復辟会議にも参加した。しかし、まもなく段祺瑞が張勲討伐に動くと、江朝宗は張勲を裏切り段祺瑞に呼応した。それでも落着後には、江朝宗は歩軍統領の辞任に追い込まれている。
1918年(民国7年)10月、江朝宗は銭能訓内閣で防疫督弁をつとめた。しかし、その職務は怠慢かつ腐敗したものであり、世論から度々批判された。1919年(民国8年)、銭能訓とともに辞任した。以後の江朝宗は、安徽派を糾合して安徽省の統治者になろうとしたり、あるいは呉佩孚らの直隷派を支援したりするなど、復権のための様々な政治的画策を行った。しかし、ことごとく失敗に終わっている。
つかのまの北平市長
1937年(民国26年)7月に盧溝橋事件が勃発すると、江朝宗は日本軍の後ろ盾を得て、北平(北京)維持会会長兼特別市市長に就任した。しかし、同年12月に王克敏が中華民国臨時政府を樹立すると、江朝宗は用済みとばかりに北平市長から罷免され、北平維持会も解散された。江朝宗は臨時政府委員にこそ任命されたが、王克敏の下風に立つことを肯ぜず、王克敏との対立の末に下野に追い込まれている。以後、江朝宗は、政界復帰と下野を繰り返した。汪兆銘政権(南京国民政府)成立後は華北政務委員会委員となった。
1943年(民国32年)9月20日、老衰のため北京特別市で死去。享年83[1]。
脚注
参考文献
- 侯鴻緒「江朝宗」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第10巻』中華書局、2000年。ISBN 7-101-02114-X。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
中華民国(北京政府)
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清(張勲復辟)
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中華民国臨時政府
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