落合治吉

落合 治吉(おちあい はるよし、生年不詳 - 弘治3年2月15日(1557年3月25日))は、戦国時代の武将信濃国水内郡葛山城主。通称は備中守

家系は源平時代の武将根井行親の子落合兼行[1]を祖とする、滋野氏の末裔。

最初は村上義清、その没落後は長尾景虎(上杉謙信)に属して、武田信玄の北信侵攻に抵抗する。弘治3年(1557年)真田幸隆の調略で一門の離反を招き、その後の武田軍の猛攻によって城は落城、自身も戦死した。

20世紀になって長野市の松参寺に供養塔が設けられた。

脚注

  1. ^ 他に、中原兼遠の五男とする説もある
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