ウィリアム・ヘンリー・スミス (1825-1891)

ウィリアム・ヘンリー・スミス
William Henry Smith
生年月日 1825年6月24日
出生地 イギリスの旗 イギリスイングランドロンドングローブナー・スクエア(英語版)
没年月日 (1891-10-06) 1891年10月6日(66歳没)
死没地 イギリスの旗 イギリス・イングランド・ケント州ウェルマー城(英語版)
前職 W・H・スミス社長
所属政党 保守党
称号 枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
配偶者 初代ハンブルデン女子爵エミリー

イギリスの旗 海軍大臣(英語版)
内閣 第2次ディズレーリ内閣
在任期間 1877年8月14日 - 1880年4月18日[1]

イギリスの旗 陸軍大臣
内閣 第1次ソールズベリー侯爵内閣
第2次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1885年6月24日 - 1886年1月26日[1]
1886年8月3日 - 1887年1月[1]

内閣 第2次ソールズベリー侯爵内閣
在任期間 1887年1月14日 - 1891年10月6日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 ウェストミンスター選挙区(英語版)[2]
ストランド選挙区(英語版)[2]
在任期間 1868年11月17日 - 1885年11月24日[2]
1885年11月24日 - 1891年10月6日[2]
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ウィリアム・ヘンリー・スミス: William Henry Smith, PC, FRS1825年6月24日 - 1891年10月6日)は、イギリス政治家実業家

W・H・スミスの社長として活躍した後、政界に転じ、保守党政権下で閣僚職を歴任した。

経歴

『バニティ・フェア』誌に描かれた似顔絵

1825年6月24日、新聞や書籍の販売業者W・H・スミスの創設者ウィリアム・ヘンリー・スミス(英語版)の息子としてロンドングローブナー・スクエア(英語版)のデュークストリートに生まれる[3]タヴィストックにあるグラマースクールを卒業した。

21歳の時(1846年)から父とともにW・H・スミスの経営に参画する。「鉄道狂時代」の中、駅の構内での書籍の販売業の拡大に成功し、1850年にはダブリンバーミンガムマンチェスターリヴァプールに新聞の卸売倉庫を所持するに至った。1857年に父が引退し、代わって社長となる。やがて政治家への転身を希望し、政治活動の時間を作るために1864年ウィリアム・レスブリッジ(英語版)をパートナーとした。さらに1874年には政治に専念するため社長を辞職している[4]

1868年から1885年にかけてウェストミンスター選挙区(英語版)選出の保守党所属の庶民院議員を務める。ついで1885年から死去する1891年まではストランド選挙区(英語版)から選出された[5]

第2次ディズレーリ内閣では1874年から1877年まで財務政務次官(英語版)、ついで1877年から1880年まで海軍大臣(英語版)を務めた[1]

1880年にディズレーリ保守党政権は総選挙(英語版)に敗れてグラッドストン率いる自由党に政権を奪われた。ディズレーリは、総選挙の敗北で崩れかけた保守党組織の引き締めを図るべく、スミスを委員長とする党改革委員会を設置させた。しかしスミスは委員会執行幹事のジョン・エルドン・ゴースト(英語版)と対立を深め、ゴーストをランドルフ・チャーチル卿率いる党内反執行部勢力「第四党(英語版)」に追いやってしまった[6]。1882年7月6日には野党保守党を代表し、イギリス半植民地エジプトで発生したウラービー革命の武力鎮圧を訴え、グラッドストン政権に腰を上げさせた[7]

第1次ソールズベリー侯爵内閣では1885年6月から1886年1月まで陸軍大臣[1]、ついで1886年1月中のごく短期間アイルランド担当大臣(英語版)を務めた。第2次ソールズベリー侯爵内閣では1886年8月から1887年1月まで陸軍大臣[1]、1887年から死去する1891年にかけては第一大蔵卿庶民院院内総務を務めた[5]

1891年10月6日に五港長官の邸宅でケント州に位置するウォルマー城(英語版)で死去した[3]。66歳だった[5]

栄典

家族

夫人の初代ハンブルデン女子爵エミリーと一女(リチャード・バックナー(英語版)画)

1858年にエミリー・ダンヴァース(彼女は1891年に初代ハンブルデン女子爵(英語版)に叙される)と結婚し、彼女との間に以下の6子を儲けた[5]

  • 第1子(長女)マーベル閣下(?-1956):第5代ハロービー伯爵(英語版)と結婚。
  • 第2子(次女)エミリー・アン閣下(1859-1942):海軍軍人サー・ウィリアム・アクランド准男爵(英語版)提督と結婚。
  • 第3子(三女)ヘレン閣下(1860-1944)ヘンリー・シーモアと結婚
  • 第4子(四女)ベアトリクス閣下(1864-1942):陸軍軍人アルフレッド・ダイク・アクランド(英語版)と結婚。
  • 第5子(長男)ヘンリー・ウォルトン(1865-1866)
  • 第6子(次男)第2代ハンブルデン子爵フレデリック(英語版)(1868-1928)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ a b c d e f 秦(2001) p.510
  2. ^ a b c d UK Parliament. “Mr W.H. Smith” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年3月13日閲覧。
  3. ^ a b c "Smith; William Henry (1825 - 1891)". Record (英語). The Royal Society. 2014年8月20日閲覧
  4. ^ History of WH Smith, W H Smith plc, accessed 10 October 2012
  5. ^ a b c d e Lundy, Darryl. “Rt. Hon. William Henry Smith” (英語). thepeerage.com. 2014年3月13日閲覧。
  6. ^ ブレイク(1979) p.180-181
  7. ^ 坂井(1994) p.100

参考文献

  • 坂井秀夫『政治指導の歴史的研究 近代イギリスを中心として』創文社、1967年(昭和42年)。ASIN B000JA626W。 
  • ブレイク男爵(英語版) 著、早川崇 訳『英国保守党史 ピールからチャーチルまで』労働法令協会、1979年(昭和54年)。ASIN B000J73JSE。 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220。 

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、ウィリアム・ヘンリー・スミス (1825-1891)に関連するカテゴリがあります。
  • Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by W. H. Smith(英語)
  • Was Lord Bacon the Author of Shakespeare's Plays?: A Letter to Lord Ellesmere at Goggle Books.
  • Bacon and Shakespeare: An Inquiry Touching Players, Playhouses, and Play-writers in the Days of Elizabeth at Google Books.
公職
先代
ジョン・ジョージ・ドドソン(英語版)
イギリスの旗 財務政務次官(英語版)
1874年1877年
次代
フレデリック・スタンリー閣下
先代
ジョージ・ワード・ハント(英語版)
イギリスの旗 海軍大臣(英語版)
1877年1880年
次代
初代ノースブルック伯爵
先代
ハーティントン侯爵
イギリスの旗 陸軍大臣
1885年1886年
次代
初代クランブルック子爵
先代
サー・ウィリアム・ハート・ダイク准男爵(英語版)
イギリスの旗 アイルランド担当大臣(英語版)
1886年
次代
ジョン・モーレイ(英語版)
先代
サー・ヘンリー=キャンベル・バナマン
イギリスの旗 陸軍大臣
1886年1887年
次代
エドワード・スタンホープ閣下(英語版)
先代
第3代ソールズベリー侯爵
イギリスの旗 第一大蔵卿
1887年1891年
次代
アーサー・バルフォア
先代
ランドルフ・チャーチル卿
イギリスの旗 庶民院院内総務
1887年1891年
党職
先代
ランドルフ・チャーチル卿
保守党庶民院院内総務(英語版)
1887年 - 1891年
次代
アーサー・バルフォア
名誉職
先代
第2代グランヴィル伯爵
五港長官(英語版)
1891年
次代
初代ダファリン侯爵
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