トゥメン・ジャサクト・ハーン
トゥメン・ジャサクト・ハーン Түмэн засагт хаан ᠲᠦᠮᠡᠨ ᠵᠠᠰᠠᠭᠲᠤ ᠬᠠᠭᠠᠨ | |
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モンゴル帝国第38代皇帝(ハーン) | |
在位 | 1558年 - 1592年 |
別号 | ジャサクト・ハーン |
全名 | トゥメン・ジャサクト・ハーン |
出生 | 1539年 |
死去 | 1592年 |
子女 | ブヤン・セチェン・ハーン |
家名 | ボルジギン氏 |
父親 | ダライスン・ゴデン・ハーン |
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トゥメン・ジャサクト・ハーン(モンゴル語: Түмэн засагт хаан、ᠲᠦᠮᠡᠨ
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ᠬᠠᠭᠠᠨ 英語:Tümen Zasagt Khan、1539年 - 1592年)は、モンゴル帝国の皇帝(ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ダライスン・ゴデン・ハーンの長男。
生涯
1539年、ダライスン・ゴデン・ハーンの長男として生まれる。
1557年、父のダライスン・ゴデン・ハーンが崩御したため、翌年(1558年)20歳で帝位につく。
1576年、38歳の時、腰刀を結ぶカルマ・ラマ[1]と会って、仏法の門に入って六トゥメンを集め、大政令を伝え示して、左翼のトゥメンからチャハルのナムダイ・ホンタイジ、ハルハのウイジェン・スブハイ、右翼のトゥメンからオルドス部のフトゥクタイ・セチェン・ホンタイジ、アストのノム・ダラ・グラチ・ノヤン、トゥメトのチュルケ・ホンタイジらをして政を執らせたので、ジャサクト・ハーンとしてあらゆる方向に有名になって、ジュルチト(女直)、ネリグト(サハルチャ)、ダグール(ダウール)の3つの言語の種族から、貢税を取り、はなはだしい安楽をもって人衆生を満足させた。
また、遼東に対する侵攻を繰り返し、『明史』において「土蛮」として頻出する。
1592年、トゥメン・ジャサクト・ハーンは35年間帝位にあって、54歳で崩御した。翌年(1593年)、長男のブヤン太子が帝位についた。
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子
11人とする説[3]、8人とする説[4]、4人とする説[4]などがある。
- 長子・卜言台周[4](卜彥伯吉)[5]/ ブヤン・セチェン・ハーン[3]
- 次子・宰賽兀兒[4](栢太)[5]
- 三子・伯言戶兒[4](卜彥兔)[5]
- 四子・把哈委正[4]
- 五子・額參[4]
- 六子・先銀[4]
- 七子・燒花[4]
脚注
- ^ 腰刀を紐のように結んで見せるカルマ派の妖術使いのラマである。
- ^ 岡田 2004,p244-245
- ^ a b 岡田 2004,p245
- ^ a b c d e f g h i “東三邊一 (土蠻列傳下)”. 萬曆武功錄. 10
- ^ a b c 和田, 清 (1958). 五. 察哈爾部の分枝. “〈論説〉察哈爾部の變遷 (上)”. 東洋学報 41 (1): 31-43.
参考資料
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元朝以前 | |
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