マルコルギス・ハーン
マルコルギス | |
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モンゴル帝国第30代皇帝(ハーン) | |
在位 | 1455年 - 1465年 |
別号 | ウケクト・ハーン |
全名 | マルコルギス・ウケクト・ハーン |
出生 | 1448年 |
死去 | 1465年 |
家名 | ボルジギン氏 |
父親 | トクトア・ブハ |
母親 | 小ハトン・サムル太后 |
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マルコルギス・ウケクト・ハーン(モンゴル語: Махагүргис Үхэгт хаан、1448年 - 1465年)は、モンゴル帝国の第30代(北元としては第16代)ハーン。漢語資料[1]では馬児苦児吉思、麻馬児可児吉思、麻児可児、馬可古児吉思、馬古可児吉思と表記される[2]。「マルコルギス(Markörgis)」は「聖ゲオルギオス」のシリア語名であり、キリスト教との関連性を指摘する意見もある[3][4]。
生涯
1448年[5][6]、タイスン・ハーン(トクトア・ブハ)とオイラトの族長エセン・タイシの姉(小ハトン・サムル太后)との間に生まれる。
初め、エセン・タイシは自分の甥であるマルコルギスを太子にしようとしていたが、タイスン・ハーンが別の妻が生んだ子を立てようとしたので、エセン・タイシはこれに文句を言った。するとタイスン・ハーンは兵を率いてエセン・タイシに攻めかかったが逆に敗れてしまう。タイスン・ハーンは姻戚のウリャンカイ部に逃れるが、シャブダン(沙不丹)という者によって殺された(1451年)。[7]
タイスン・ハーンを滅ぼしたエセン・タイシは北元の皇族を皆殺しにし、オイラト人を母に持つ者だけを助命した。そのため、マルコルギスは難を逃れることができた。1453年、エセン・タイシは「チンギス統原理」を無視してハーンの位に登り、「大元天聖大ハーン」と称した。しかし、その支配は長くは続かず、翌1454年にアラク・チイン(阿剌知院)の叛乱によって敗れ、逃走中に殺された。[8]
1455年、ボライ(孛来)らモンゴルの部族長たちによって、マルコルギスは8歳でハーンに擁立され[9]、ウケクト・ハーンと名付けられた[10]。幼少で即位したために明は彼を「小王子」と呼び[9]、以降中国で「小王子」は幼年で即位したハーンを指す称号として用いられる[11]。即位後の彼に実権は無く、族長たちの傀儡にすぎなかった[12]。
マルコルギス・ウケクト・ハーンの在位中はボライが明朝とのやり取りをし、侵入・略奪もおこなうなど、勝手な振る舞いをしていたため、マルコルギスとボライは敵対していた。[13]
1465年[14]、マルコルギス・ウケクト・ハーンはボライによって殺害された[15]。ボライはまもなくオンリュートのモーリハイ(毛里孩 Maγoliqai、ムラハイ王 Mulaqai ong)によって殺され、モーリハイがモーラン(Molan)[16]をハーンとした。[17]
脚注
- ^ 『明実録』、『明史』韃靼伝
- ^ 『明史』韃靼伝では麻児可児と馬古可児吉思が別人のように記されているが、同一人物である。《羽田・佐藤 1973,p21》
- ^ 森川 1999,p93
- ^ 岡田 2004,p211
- ^ 『蒙古源流』では丙寅の年(1446年)としている。《岡田 2004,p210-211》
- ^ 1446年とする意見もある。《岡田 2010,p233,246》
- ^ 岡田 2004,p199-200
- ^ 岡田 2004,p208-209
- ^ a b 森川 1997,p331
- ^ 岡田 2004,p210
- ^ 羽田・佐藤 1973,p19
- ^ 岡田 2010,p69
- ^ 羽田・佐藤 1973,p20-21
- ^ 『明史』韃靼伝では成化二年(1466年)とし、『蒙古源流』では癸酉の年(1453年)と誤っている。
- ^ 『蒙古源流』では七トゥメトのドガラン・タイジによって殺されている。《岡田 2004,p210》
- ^ 『蒙古源流』では「ムラン・ハーン」。
- ^ 羽田・佐藤 1973,p24
参考文献
- 羽田明、佐藤長 他訳注『騎馬民族史3 正史北狄伝』(東洋文庫、平凡社、1973年3月)
- 森川哲雄「ポスト・モンゴル時代のモンゴル」『中央ユーラシアの統合』収録(岩波講座 世界歴史11、岩波書店、1997年11月)
- 森川哲雄「明代のモンゴル 分裂と抗争の時代」『北アジア史』収録(竺沙雅章監修, アジアの歴史と文化7, 同朋舎, 1999年4月)
- 岡田英弘訳注『蒙古源流』(刀水書房、2004年、ISBN 4887082436)
- 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』(藤原書店、 2010年11月)
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