ボディ・アラク・ハーン
ボディ | |
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モンゴル帝国第36代皇帝(ハーン) | |
在位 | 1524年 - 1547年 |
別号 | アラク・ハーン |
全名 | ボディ・アラク・ハーン |
出生 | 1504年 |
死去 | 1547年 |
子女 | ダライスン・ゴデン・ハーン、コクジュテイ太子、オンゴン・ドゥラル |
家名 | ボルジギン氏 |
父親 | トロ・ボラトまたはウルス・ボラト |
母親 | チャージャン娘娘太后 |
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ボディ・アラク・ハーン(モンゴル語: Боди Алаг хаан, ラテン文字転写: Bodi Alagh Khan、1504年 - 1547年)は、モンゴル帝国の皇帝(ハーン)であり、チャハル・トゥメンの当主である。ダヤン・ハーンの孫で、トロ・ボラトの長男(但し、ダヤン・ハーンの次男ウルス・ボラトの長男とする異説あり)。
生涯
1504年、ダヤン・ハーンの長男トロ・ボラトとチャージャン娘娘太后との間に生まれる(ウルス・ボラトの長男とする説あり)。
1508年、叔父(または父)であるウルス・ボラト晋王が右翼のイブラヒム太師らによって殺されると、ダヤン・ハーンは左翼を率いてその報復をし、右翼三トゥメンをことごとく降した。ダヤン・ハーンは有功の士に賞賜した際、ボディ・アラクに「わが帝位を守るがよい」と仰せになり、ボディ・アラクは帝位継承を約束された。
1523年、父(または伯父)のトロ・ボラトが亡くなる。
1524年[1]、ハーンであるダヤン・ハーンが崩御したが、長男であるトロ・ボラト、次男であるウルス・ボラト晋王がすでに亡くなっていたため、三男であるバルス・ボラト・サイン・アラク晋王は、ボディ・アラクが世継ぎに指名されていたにもかかわらず、まだ「小さい」と言って自ら帝位についた。しかし、ボディ・アラクはすぐに左翼の三トゥメンを率いてバルス・ボラト・サイン・アラク晋王に譲位を迫り、激しい言葉で叱責した。これにバルス・ボラト・サイン・アラク晋王は自らの過ちを認め、ボディ・アラクに跪拝して帝位を譲った。ボディ・アラクはあらためて八白室(ナイマン・チャガン・ゲル:チンギス・カン廟)に跪拝して帝位につき、ボディ・アラク・ハーンとなった。その後、ボディ・アラク・ハーンはホルチン部のバートル・モロジャイと協議して、右翼三トゥメンを解体し併合しようと考え、右翼三トゥメンに向かって出陣しようとしていた。そこへ母であるチャージャン娘娘太后が「祖父(ダヤン・ハーン)が築いた大政を破るのですか」と諫めたため、ボディ・アラク・ハーンは右翼侵攻を取りやめた。
1547年、ボディ・アラク・ハーンは44歳で崩御した。翌年(1548年)、長男のダライスン太子が八白室の神前でハーンとなった。
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子
- ダライスン・ゴデン・ハーン
- コクジュテイ太子
- オンゴン・ドゥラル
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脚注
参考資料
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元朝以前 | |
元朝皇帝 | クビライ(世祖)1271-1294 / テムル(成宗)1294-1307 / カイシャン(武宗)1307-1311 / アユルバルワダ(仁宗)1311-1320 / シデバラ(英宗)1320-1323 / イェスン・テムル(泰定帝)1323-1328 / アリギバ(天順帝)1328 / トク・テムル(文宗)1328-1329 / コシラ(明宗)1329 / トク・テムル(文宗)1329-1332 / イリンジバル(寧宗)1332 / トゴン・テムル(恵宗)1333-1368 |
北元(韃靼) | トゴン・テムル(恵宗)1368-1370 / アユルシリダラ(昭宗)1370-1378 / トグス・テムル(末主)1378-1388 / イェスデル1388-1391 / エンケ1391-1394 / エルベク1394-1399 / クン・テムル1399-1402 / オルク・テムル1402-1408 / オルジェイ・テムル1408-1412 / ダルバク1412-1415 / オイラダイ1415-1425 / アダイ1425-1438 / トクトア・ブハ1438-1452 / アクバルジ1452-1453 / エセン1453-1454 / マルコルギス1455-1465 / モーラン1465-1466 / マンドゥールン1475-1479 / ボルフ・ジノン1480-1487 / ダヤン・ハーン1487-1524 / バルス・ボラト1524 / ボディ・アラク1524-1547 / ダライスン・ゴデン1548-1557 / トゥメン1558-1592 / ブヤン1593-1603 / リンダン1603-1634 / エジェイ1634-1635 |