近衛維子
この項目では、近衛内前の娘について説明しています。近衛尚通の正室については「徳大寺維子」をご覧ください。 |
近衛維子 | |
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第119代天皇嫡母 | |
皇太后 | 安永10年(1781年)3月15日 |
盛化門院 | |
院号宣下 | 天明3年10月12日(1783年11月6日) |
誕生 | 宝暦9年12月9日(1760年1月26日) |
崩御 | 天明3年10月12日(1783年11月6日) |
陵所 | 月輪陵(京都府京都市東山区) |
旧名 | 倫君 |
父親 | 近衛内前 |
母親 | 吉田良倶養女 |
配偶者 | 後桃園天皇 |
子女 | 欣子内親王 |
養子女 | 光格天皇 |
女御宣下 | 安永元年(1772年)12月5日 |
准后 | 安永8年(1779年)6月3日 |
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近衛 維子(このえ これこ、宝暦9年12月9日(1760年1月26日) - 天明3年10月12日(1783年11月6日))は、後桃園天皇の女御。関白太政大臣近衛内前の娘。弟に右大臣近衛経熙がいる。
経歴
明和5年(1769年)11月、皇太子英仁親王(のちの後桃園天皇)と結婚。明和7年(1770年)、英仁親王の即位に伴い、安永元年(1772年)12月に女御宣下を受ける。
安永8年(1779年)1月に第一皇女・欣子内親王を出産し、同年6月には准三后に叙される。しかし、同年11月に後桃園天皇が崩御。天皇には欣子内親王以外に子女がなかったため、急遽傍系の閑院宮典仁親王の第六王子・祐宮(のちの光格天皇)を維子の養子とし、皇位を継承させることとなった。
安永10年(1781年)3月、皇太后となり、名実ともに嫡母として新帝を補佐する立場に置かれるが、それから間もなく、天明3年10月12日(1783年11月6日)に崩御。享年24。同日、女院号を宣下され、盛化門院(せいかもんいん)と称される。陵墓は京都府京都市東山区の月輪陵。
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