鷹司祺子
鷹司 祺子 | |
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第121代天皇嫡母 | |
皇太后 | 弘化4年3月14日(1847年) |
新朔平門院 | |
院号宣下 | 弘化4年10月13日(1847年11月20日) |
誕生 | 文化8年2月25日(1811年3月19日) |
崩御 | 弘化4年10月13日(1847年11月20日) |
陵所 | 後月輪陵 |
旧名 | 清姫 |
氏族 | 藤原氏(鷹司家) |
父親 | 鷹司政熙 |
母親 | 井上梅子 |
配偶者 | 仁孝天皇 |
入内 | 文政8年(1825年) |
子女 | 皇女 |
養子女 | 孝明天皇 |
女御宣下 | 文政8年(1825年) |
准后 | 文政13年5月22日(1830年) |
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鷹司 祺子(たかつかさ やすこ、文化8年2月25日(1811年3月19日) - 弘化4年10月13日(1847年11月20日))は、江戸時代後期の仁孝天皇の女御。のち皇太后、女院。女院号は新朔平門院(しんさくへいもんいん)。
系譜
関白鷹司政熙の娘。母は井上義胤の娘梅子。准母は権中納言豊岡尚資の娘斐子。異母兄の関白鷹司政通、同母姉の仁孝天皇女御鷹司繋子ほか、兄弟姉妹は多数。なお入内の際、父政熙は落飾し隠居していたことから、兄政通夫妻の養女となった。
略歴
文政6年(1823年)、仁孝天皇の女御であった姉繋子が難産のため26歳で早世。そこで文政7年(1824年)9月に光格上皇・仁孝天皇より鷹司家に対して妹の清姫(祺子の幼名)を後添いとして天皇のもとに入内させるように要請があり[1]、文政8年(1825年)、15歳で入内し、女御宣下を受ける。
文政12年12月(1830年1月)、祺子は皇女を出産するが、天保2年(1831年)に夭折。それ以降子に恵まれなかったため、天保6年(1835年)、典侍正親町雅子所生の第四皇子熙宮(統仁親王、のちの孝明天皇)を養子とした。
弘化3年(1846年)、仁孝天皇が崩御し、祺子の養子となっていた統仁親王が即位する。翌弘化4年(1847年)3月、祺子は新帝の嫡母として皇太后となるが、同年10月13日、出家して女院号宣下を受け、同日中に崩御。享年37。後月輪陵に葬られた。
脚注
- ^ 久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院、1998年) ISBN 4-87294-115-2 P278-279
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